ETV2001「シリーズ戦争をどう裁くか」の「第4回 和解は可能か」を見て。

 南アフリカ共和国では、かつて長年、人種的少数派である白人が、多数派である黒人の居住地域を隔離し、人種差別的な取り扱いをしながら、共和国を支配を続けてきた。(「アパルトヘイト」と呼ばれる人種隔離政策)
 ヨハネスブルクにあるマンデオ高校の歴史担当ヘレン・スワン先生が指摘するように「集団を分断すれば 支配と征服がしやすくなる」と考えられてきたからだ。

 南アフリカにおける初の黒人政権であるマンデラ政権は、被差別者であった黒人が、差別者であった白人を裁くのではなく、真実和解委員会において真実を明らかにすることで、政治的な背景でなされた暴力行為を赦すということを行った。

 「罰する」ことを前提とした裁きでは、加害者は口を閉ざしてしまう。真実を明らかかにするためには「赦す」ということが必要となる。また、マンデラ大統領の全人種が参加する社会を作るためにも「罰する」のではない「赦し」が社会秩序を作るうえでは欠かせない。しかし、「赦す」ことを前提とした裁きでは被害者の遺族は納得できない場合も少なくない。

 一橋大学教授の鵜飼哲氏は「(真実を明らかにし、許すことで新しい社会秩序を作るということが)ひとつ間違うとこの秩序を形成するために、『被害者は悔しいだろうけれど許しなさい』といわれているように感じてしまう。」
 そして、東京大学高橋哲哉助教授は「許すことができるのは犠牲者本人だけなんだということですね。厳密に考えれば、許しと言うのは加害者と被害者が向き合って、直接にお互い個と個の関係において行われることだろうと思うんですね。(真実和解委員会と言う舞台では第三者が許しを行っているように見えてしまい、納得できない遺族もいる。)」と述べた。
 これについて「新しい正義を生み出すための痛み。」と言う言葉が番組内では用いられている。
 
 また、 東京大学助教授 高橋哲哉教授は「世界各地でさまざまなケースで和解が問われている。…和解と言う目標に向かって新しい一歩を踏み出すことを恐れない、その大前提になるのは真相究明と言うこと、裁く(罰する)にしても許すにしても何があったのかということが分からなければ、これは曖昧にすることとまったく同じになってしまう。…後ろを見ながら前に進んでいく。やはり過去を直視し受け止めることがなければ。現在の危険性に対して警戒を向けることができない。新しい未来を拓くこともできない。」と延べている。また、学校で子どもたちが用いる歴史教科書の編纂にあたっているケープタウン大学のロブ・ジボガー助教授も「(過去の歴史を正しく認識することが、南アフリカの未来にとって何よりも大切なこと) 白人の歴史を黒人の歴史に変えるだけでは危険です。一方の考えに偏らずに中間の立場で取り組みます。」と話している。

 真実を正しく認識をすることが、同じような歴史の繰り返しを防ぐことになる。それなくしては、政権をとった黒人側が、他人種に対して、あるいは人種内部において新たな被差別者を生み出す可能性もある。それゆえに真実を知ることこそがもっとも大切だと考えられるのだろう。
(現在の南アフリカ憲法アパルトヘイトへに関する反省を踏まえた人権規定がなされており、世界で初めて、同性愛者の差別禁止を、憲法上規定した国でもある。)

 ただ、この番組を見ていて感じたこととして、「このような『赦しによる真実を探るという方法』は黒人が人口の大半を占め、政権をとることができた国であるから行えたことだとも言えるのではないか」ということが気になってしまった。
 負け続けている(あるいはそもそも蜂起しない)少数者の声を国際的な司法の場は守ることがどこまでできるのかが、今後課題となっていくのではないか。