1930・40年代・中国

以前、庭園美術館 「1930年代・東京」展にて、1930年代の東京の性事情について、書き込みをしましたが、
1930年代といえば、1931年の満州事件や1932年の上海事変、1937年の第二次世界大戦の開始といった時期でもあり、中国の側はどうなっていたのだろうかと思い、ぱらぱらと本をめくってみました。

1930年代の
・国民党政府からその作品についてしばしば発禁処分を受けていた魯迅は、元教え子であった許広平と同棲し、子どもが生まれると一家で毎週のように都心のハリウッド映画に通っていた。
・女優の阮玲玉が自家用車にお抱え運転手という上流階級の暮らしを始めるが、後に姦通罪で告訴され、自殺に追い込まれた。
 左派のジャーナリズムは「保守派の新聞雑誌のスキャンダラスな報道のあり方が彼女を字自殺に追い込んだ」と非難。葬列にはファン数十万人が加わった。
という記述が目に飛び込んできました。

また、太平洋戦争中の1940年代においても、
・国民党勢力下の地域では1942年だけでも新刊書が3879点、雑誌が延べ号数で4153号刊行されていた。
・同地域では沿岸部を日本に占領されたため、外国映画の輸入が止まったが、映画が上映されなくなった映画館は話劇の舞台となり、1941年から44年にかけて毎年20作以上の話劇が上演された。
共産党勢力下の地域では、多くの文学者が粛清に会うが、1938年につくられた魯迅芸術学院(文学・演劇・音楽・美術の四学部からなる)において、共産党指導という宣伝色を持つ、文芸工作員が養成され、宣伝文や革命神話の作品が作られた。
・日本軍の勢力下にあった地域では蘇青が、1943年に離婚を描く小説『結婚十年』を書き、1944・45年前期には雑誌記事として書かれた『談男人』で、「男が争いを起こす動機は皆女のためである…願わくは世の女たちよ、虚栄心を持たないで欲しい。そうすれば男が犯す罪も少なくなるだろう。男たちはこのような憐れむべき、また憎むべき動物なのだ」と書き、『談女人』で「婚姻は取り消し、同居は自由、生まれた子どもは母親の元で育てられ、国から手当てが出る」ような生活形態ができればそれにこしたことはないと述べた。また、『談婚姻及其他』では「婚姻がいま廃止できないのならば、私はそれに自由が加えられることを望む。すべてを当事者自身が決めて、常に同居していなくても構わない…婚姻はもともと性関係が八方円満に完成したもの。もし制限や束縛として用いられたら、それは愛情の緊迫圏となって、もちろんさまざまな弊害が発生するだろう。」と書いた。(現在では、フェミニズム文学のさきがけとして注目されている。)

とのこと。

 日中15年戦争と言われる時期。しかし、戦争史の中でかすみがちだが、しかし、両国における性に関する風俗や文化の歴史についてもしっかりと見つめていくことで、戦争や平和について考える上での支店を増やしていけるといいのではないかと感じています。