「消えてゆく 東京の地名」〜吉原〜

「消えてゆく東京の地名」(本間信治,1986,月刊ペン社)の拾い読みをしました。

 色々なゆかりのある地名が取り上げられており、その消え行く地名のひとつとして「吉原」も出ていました。
 「元和三年、小田原北条家の浪人、庄司甚右衛門が幕府に願い出て、アシやヨシの密生する湿地を払い下げてもらい、日本橋に公許の遊女街を開いた。これが有名な吉原。 はじめは葭(よし)が生い茂っていたので葭原とよんだ」…「明暦の大火ののち、この遊里をそっくり浅草の千束村へと写し、」…「歌舞伎とならんで江戸町人文化や、軟派文学などの主要な舞台となった。明暦三年このかた、江戸随一の花街として知られた新吉原の巷も、昭和四十一年の住居表示により、あえなくその名を消し去り、いずれも台東区千束と改められた。 不夜城の灯はそれに先立ち、売春防止法施行の昭和三十三年三月三十一日かぎり、いったんは消えたが、現在また、バーやトルコなどが軒を連ねる一大歓楽街としてよみがえっている。」(227p)

 なお、吉原が遊郭であったことは「吉原炎上」(http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD17831/story.html)(テレビドラマ版はこちら→http://www.tv-asahi.co.jp/yoshiwara/index_top.html
などをみて知ってはいたものの、幕府に願い出て払い下げてもらった土地に作られた公許の遊女街として始まったことはこの本で始めて知ったしだいです。

 なお、東京では吉原の近くに山谷、大阪では飛田新地の近くに釜ヶ崎、横浜では黄金町の近くに寿町があり、遊郭・旧赤線といった歓楽街とドヤ街がまるでセットであるかのように形成されています。昨年度、二つの授業で山谷と寿町には行ってきましたが、そのあたりの経緯も一度調べてみたいなと思ったしだいです。

障害児の性教育

夕暮菜日記 都立七尾養護学校の性教育裁判へのトラックバックです。

 「知的障害のある、生活年齢が10代後半で、知的年齢が2,3歳の子どもにどういった性教育をするのか。」ということについて、性教育推進派の教員が処分を受けたという事件があり、この事件についてついに判決が出ました。

 知的障害児者が性暴力の被害に遭う場合、加害者が身近な人という場合が少なくありません。
知的障害児者は生育過程や、生活家庭の中で、何に対しても「YES」と答えたほうが上手くいくということを身につけてしまいがちです。また、介助者や指導者、後見人などについて「OOさんのいうことをよく聞きなさい。」ということを疑わないように育てられることが、少なくありません。

 身を守るために、自分の体の中で、不用意に相手に触れさせない部分はどこかということを知っておく必要があると、教員はもちろん、多くの親御さんが感じています。
 また、子ども達を加害者にさせないということも重要なポイントです。実際の障害児者の指導場面で、正しい知識を教えてあげることで、「興味本位での性への関心」ではなく、「相手と自分の関係性の中での性への関心」へと気持ちを向けられるようになる子ども達が多いということを感じています。

 今回の七生養護学校性教育をめぐる裁判では、性教育を推進していた教員が保護者の支援を受けて、性教育批判派の都議や教育委員会に一矢を報いた判決となっています。

 ちなみに、七生養護学校性教育の中で取り入れられていた、「からだうた」については以下を参照下さい。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm1408394

★からだうたの歌詞★


あたま あたま あたまのしたに

くびーがあっててかたがある

かたからうで ひじ またうで

てくびがあって てがあるよ

むねーにおっぱい おなかにおへそ

おなかのしたに ペニス(ワギナ)だよー

せなかはみえない せなかはひろい 

こしーがあって おしりだよ

ふとももひざ すね あしくび

かーかとあしーのうら つまさーきー

かーかとあしーのうら つまさーきー

おしまい

とあるサイトのHIVに関するネット調査結果を見て

 HIV・エイズに関する意識調査(生活向上WEB CTリサーチ)
によると、HIVの感染予防にコンドームを使っている人が39%、HIV抗体検査を受けたことがある人が21%、もしも自分がHIV感染している事がわかったら、恋人に伝えるという人は21%。

 回答者に占める若者の率が高かったりするなど、インターネット調査特有の歪みもあるのだとは思いますが、
やはり、低い数値だよなぁと思うんですよね。

 恋人との間でHIVやコンドームについて語ったり、伝えたり、あるいは検査に行ったりすることが「しづらい」と感じている人が多く、「エイズは防ぎにくい病気」とは以前から言われてはきました。それでも、この数値はもうちょっと改善できるんじゃないかと思える数字のように思えます。






 

 謝罪と許しと反省

 これまで、このブログで「戦争をどう裁くか」について取り上げてきましたが、先日、就遊館としょうけい館という、戦争についてまったく異なる取り上げ方をしている二つの場所を一度に見てきました。しかも、平和のために、戦争遺跡を残すということに取り組んでいる方に、ガイドをしていただきながら、「平和」について考えつつ、両施設を客観的な視点で見て、学問的に批判的な観点、肯定的な観点から捉えることができました。

 これらを踏まえて、「日本の宗教」(遊佐道子 2007年 春秋社)と「ナチスと教会」(川島幸夫 2006年 創文社)について、戦中、戦後を中心に読んでみました。

 ドイツの場合、プロイセン王の主唱の下にルター派と改革派(カルヴァン派)を統合したプロイセン合同教会ができ、さらに、ドイツ各地のルター派プロテスタント系のキリスト教各派を取り込み、その連合体として作られた「ドイツ福音主義教会同盟」が国民の多数を占めていました。(ルターの改革以来ドイツでは各地に分立する領邦国家の君主勢力と教会は強い結びつきを持ち続けた「領邦教会制」の時代、福音主義プロイセン王がドイツ皇帝を兼任した「神聖福音主義帝国」の時代を経て、共和制となった後も教会は、国家教会制を廃しつつも、ワイマール憲法下で教会の伝統的な諸権利は保障されていました。)
 そのドイツのキリスト教と、天皇を神聖視する形で、古来からの神道を国家的な儀式としての性質を強めて作られた、日本の国家神道とを単純に比較することはできないでしょう。
 しかし、ドイツでは、第二次世界大戦後、キリスト教会の罪についても取り上げられてきたことは知っておいてもいいのかなと思うのです。
 ドイツにおいて、教会はナチスを警戒し、境界への干渉に対して、教会の自由と独立を守ろうとする姿勢が見られ、「教会的反対派はナチスドイツにおいていくつかの目に見える成果を収めることができた唯一の反対派であった」と評価される一方で「ドイツにおける一般的なユダヤ人に対する迫害に対して公然たる反対の声を上げることができなかった。」とされています。
 ボンヘッファーは「国家による秩序の創造は、神の『保持』の意思にもとづくものであり、国家行為としての政治活動には教会は介入しない」としつつも、「教会は国家に問いかけができるし、問いかけるべきである」考えました。そして、教会の政治権力に対する3つの抵抗類型として、「第一に、教会は国家に対してその行為が国家にふさわしい正当な性格を持っているかどうかという問い、すなわち国家としての責任を目覚めさせる問いを向ける。」、「第二に教会はどのような社会秩序の犠牲者たちに対しても、たとえ彼らがキリスト教会に所属していなくても、無条件に彼らに使える義務を負っている。」、「第三に車に轢かれた犠牲者を解放するだけでなく、車そのものを阻止することである。」ということを挙げました。これによって、「告白教会(派)」においては、第一についてはかなりの規模で実行され、第二についても小規模ながら実行に移されました。しかし、第三についてはまったく実現に至りませんでした。そしてボンヘッファーは告白教会における自らの理念を実現することをあきらめざるをえなくなった後、1943年に投獄され、1945年に強制収容所で処刑されました。
 なお、戦後になって、ニーメラ(彼も1937年にゲシュタポによって投獄され、敗戦までザクセンハウゼン及びダハウ強制収容所に収容されました。彼は戦争加害者というよりも基本的に抵抗者であり被害者であったにもかかわらず、彼)はドイツ福音主義教会終戦後に罪責告白が問題化していたときに、明確に教会の罪責、特に告白教会の罪責を指摘し、他人の罪責を問題にする前にまず教会が公式に罪責を告白することによって国民に手本を示さなければならない。それによってのみ教会は未来を目指してドイツの再建のために働くことができる、と力説をしましたた(「我々の今日の状態をもたらしたのはなによりもまずわが民族とナチスとの罪だった、と言って、すませるわけにはいきません。彼らの知らない道をかれらはどのようにすすむべきであったというのでしょうか。彼らは単純に自分たちは正しい道を進んでいるのだと、やはり信じ込んでいたのです。否、本来の罪は教会にあるのです。なぜなら教会だけが破滅に至る道を知っていたからです。それなのに、教会はわが民族に警告を与えませんでした。教会は犯された不正を暴露せず、あるいは暴露しても遅すぎました。この点で、告白教会の罪責を特に大きいのです。なぜなら告白教会はそれについて語りましたが、やがて疲れてしまい、神よりも人間のほうを恐れれるようになりました、こうして破局が我々すべての上に到来し、その渦の中に我々を巻きこみました、我々教会は、まさに胸を叩いて告白しなければなりません、『私の罪、私の罪、私の巨大な罪』と。」
 そして、ドイツにおいては、1945年10月19日に誰よりも先にプロテスタント教会が罪責告白を行いました。これは「シュトゥットガルト罪責宣言」と呼ばれています。
 「許し」を大切にするキリスト教文化の下での国家や戦争犯罪人への許しがこれまで大きなテーマとして考えてきたが、そもそもキリスト教という宗教そのものがドイツにおいて罪を告白し、許しを請うことになったのです。

 戦争と人間、戦争と国家だけでなく、戦争と宗教という点からも、
いかに罪を認めるのかということや、宗教が犯した罪をどう許すのかということを考えていくべきなのではないかと感じたしだいです。
 

 

1930・40年代・中国

以前、庭園美術館 「1930年代・東京」展にて、1930年代の東京の性事情について、書き込みをしましたが、
1930年代といえば、1931年の満州事件や1932年の上海事変、1937年の第二次世界大戦の開始といった時期でもあり、中国の側はどうなっていたのだろうかと思い、ぱらぱらと本をめくってみました。

1930年代の
・国民党政府からその作品についてしばしば発禁処分を受けていた魯迅は、元教え子であった許広平と同棲し、子どもが生まれると一家で毎週のように都心のハリウッド映画に通っていた。
・女優の阮玲玉が自家用車にお抱え運転手という上流階級の暮らしを始めるが、後に姦通罪で告訴され、自殺に追い込まれた。
 左派のジャーナリズムは「保守派の新聞雑誌のスキャンダラスな報道のあり方が彼女を字自殺に追い込んだ」と非難。葬列にはファン数十万人が加わった。
という記述が目に飛び込んできました。

また、太平洋戦争中の1940年代においても、
・国民党勢力下の地域では1942年だけでも新刊書が3879点、雑誌が延べ号数で4153号刊行されていた。
・同地域では沿岸部を日本に占領されたため、外国映画の輸入が止まったが、映画が上映されなくなった映画館は話劇の舞台となり、1941年から44年にかけて毎年20作以上の話劇が上演された。
共産党勢力下の地域では、多くの文学者が粛清に会うが、1938年につくられた魯迅芸術学院(文学・演劇・音楽・美術の四学部からなる)において、共産党指導という宣伝色を持つ、文芸工作員が養成され、宣伝文や革命神話の作品が作られた。
・日本軍の勢力下にあった地域では蘇青が、1943年に離婚を描く小説『結婚十年』を書き、1944・45年前期には雑誌記事として書かれた『談男人』で、「男が争いを起こす動機は皆女のためである…願わくは世の女たちよ、虚栄心を持たないで欲しい。そうすれば男が犯す罪も少なくなるだろう。男たちはこのような憐れむべき、また憎むべき動物なのだ」と書き、『談女人』で「婚姻は取り消し、同居は自由、生まれた子どもは母親の元で育てられ、国から手当てが出る」ような生活形態ができればそれにこしたことはないと述べた。また、『談婚姻及其他』では「婚姻がいま廃止できないのならば、私はそれに自由が加えられることを望む。すべてを当事者自身が決めて、常に同居していなくても構わない…婚姻はもともと性関係が八方円満に完成したもの。もし制限や束縛として用いられたら、それは愛情の緊迫圏となって、もちろんさまざまな弊害が発生するだろう。」と書いた。(現在では、フェミニズム文学のさきがけとして注目されている。)

とのこと。

 日中15年戦争と言われる時期。しかし、戦争史の中でかすみがちだが、しかし、両国における性に関する風俗や文化の歴史についてもしっかりと見つめていくことで、戦争や平和について考える上での支店を増やしていけるといいのではないかと感じています。

 ETV2001「シリーズ戦争をどう裁くか」の「第2回 問われる戦時性暴力」を見て。

 今回の番組は2000年12月の「現代の紛争下の女性に対する犯罪」国際公聴会(@東京)を取り上げている。これを主催した米国NPOジェンダー正義を求める女性コーカス」は 「被害者による証言は戦時性暴力の実態を明るみにするだけでない。…これを機に私たちが何ができるのかを考えたい」と述べている。

 主な内容は以下のとおり

 戦時下の暴力や人権侵害を「人道に対する罪」 として問い直そうという動き広がっている。
この方の概念が実際の裁判にはじめて用いられたのがナチスによるユダヤ人虐殺を裁いたニュルンベルク裁判(1945年11月20日 – 1946年10月1日)である。(ほぼ同時期の東京裁判では米ソの対立という背景もあり、人道に対する罪はほとんど問われなかった。)
 戦勝国による占領の終了後もドイツは「人道に対する罪」を犯した人を自らの手で裁き続け、被害者の保障にも国を挙げて取り組んでいる。
 1985年の西ドイツのワイゼッカー大統領演説でも「過去に目を閉ざすものは現在に目を閉ざすことになる。」と述べられている。
 なお、戦勝国であるフランスにおいても現在、人道に対する罪が問われている。傀儡政権であったヴィシー政権が、ナチスドイツに協力をしてユダヤ人を強制収容所への移送に協力したことについて、責任者の一人が半世紀以上たった今、「人道に対する罪として」有罪の判決を受けたのである。
 また、1954年に始まったアルジェリアの独立政権でもフランス軍の拷問や虐待が明らかとなり、これら植民地での行為についても「人道に対する罪」として問うべきだという声が上がっているのだ。
 旧ユーゴスラビアルワンダでは集団的レイプなど女性に対する性暴力についても、こうした行為を「人道に対する罪」として認められた。
 日本についても、終戦後の日本政府はこれまで個人への賠償ではなく、二国間条約での賠償を行い、個人への賠償は行わないという方法を当事国の合意の下に行ってきた。しかし、慰安婦に関して、日本政府は軍の関与を裏付ける資料などもでてきているとのこと。

 なお、私自身は最近「ベルリン終戦日記 ある女性の記録」という本を読み始めている。この本の内容については、また後日、別途取り上げたいと思っているが、「平和を乱した国」かそれに「受けて立った国」かを問わず、また、「戦勝国」か「敗戦国」かを問わず、人道に対する罪はどこの国の軍隊も引き起こしうるということ、その問題をどう防ぎ、どう裁くのかを改めて考える必要があるのだと考えた。

 


 

anthropon sexoualikotēta / erotas ] 梅毒の歴史(書きかけ)

 前回のゼミの時間に、庭園美術館「1930年代・東京」展で秋山勇作の『エロチシズム』について話題としたときに、梅毒や性感染症の歴史がどうなのかと言う話が出たため、現在調べ中です。

今の段階では梅毒について

1512年 日本において記録上に初めて登場。抗生物質のない時代は確実な治療法はなく、多くの死者を出した。慢性化して障害をかかえたまま苦しむ者も多かった。
1683年 イギリスの王立協会に送ったスケッチに、スピロヘータ様のらせん菌が描かれており、細菌発見の当初からその存在は知られていた。
1835年 Ehrenbergが水中から見出したらせん菌にスピロヘータと名づける。
1830年代後半 フランスの医師、フィリップ・リコールが淋病と梅毒が別個の病気であることを証明。
1873年 Obermeierが回帰熱ボレリアの原因が病原性のスピロヘータであることを発見。
1905年 シャウデン&ホフマン(独)が、スピロヘータの一種である、梅毒の病原体スピロヘータ・バリーダ発見。
1906年 ヴァッセルマンが梅毒病原菌に対する血清診断法(いわゆるワッセルマン反応)を開発
1909年 ドイツ人のエーリッヒと日本の秦佐八郎によりヒ素を含む薬剤のサルバルサンを開発(ヒ素を含むため副作用が強い)
1913年 野口英世が進行麻痺(人格変化、記銘障害、知能低下、痙攣、卒中様症状を伴い精神症状が進行。うまく口が回らなくなる)や脊髄ろう(徐々に始まる脊髄の進行性病変で、脚に強い刺すような痛みが不定期に現れては消え、やがて歩行が不安定になる)が梅毒スピロヘータによることを証明。
1926年 花柳病予防法(性病治療のための診療所の設置、伝染の虞のある花柳病に罹ったことを知って売淫をなした者は3月以下の懲役、他)
1943年 フレミング抗生物質ペニシリン」により、治療法が確立。
     (梅毒トレポネーマは抗生物質への耐性は獲得していない。罹患患者は減少しているが、根絶された訳ではない。)

ということです。

 直接1930年代についてはまだあたれていませんが、サルバルサンによる治療方法はあるものの、ペニシリンの発見前で、花柳病予防法成立後という1930年代は、性感染症が社会における危機であると認識されていたころなのではないかと思われます。